映画「海賊とよばれた男」2016年12月10日公開決定!
「永遠の0」再び・・百田直樹(原作)×山崎貴(監督)×岡田准一(主演)のタッグでの映画化は、楽しみにしていらっしゃる方が多いと思います。
さて、今回は、あらすじ(ネタバレも含みます)と映画と原作本の違いについて検証していきます。
原作本を読まれてない方にとっては、かなりネタバレになりますのでご注意ください。
尚、映画を観た感想やネタバレにつきましては、別記事で紹介しております。
→ 【海賊とよばれた男】評価感想は?実在モデルやキャストは?
https://musicalstarza.com/kaizoku-review/
ロケ地(撮影場所)の記事はこちら!
→ 【海賊とよばれた男】ロケ地(撮影場所)や舞台(聖地)は?京都舞鶴や神戸が多いか?
1.原作本「海賊とよばれた男」あらすじ(ネタバレ注意!)
1-1.終戦
1945年8月15日—-4年に及ぶ「太平洋戦争」は、連合軍に大敗という結果で終わりを迎えました。
主人公は、国岡鐵造という石油販売業に従事する経営者です。
東京・銀座にある「国岡館」(本社)は戦火から免れることはできたものの、海外に販売の活路を見出していた国岡商店にとって、多大なる損失は免れません。
海外の営業所は62店であり、国内の8店を大きく上回る数であり、62店舗は全て失うことになりました。
数日後、鐵造は、国岡館の大会議室に社員を集め、
「ただちに建設にかかれ」
と士気を高めようと声をあげ、社員たちは背筋が伸びたところ、
「その道は、死に勝る苦しみと覚悟せよ」
と静かにいうのでした。
1-2.社員をクビにしない!
海外の資産を全て失い、莫大な借金を抱えるばかり。
ここまでなれば、人員整理をするというのが方策と考えられますが、鐵造は一人たりともクビにすることをしないと宣言します。
社員は家族同然であり、会社が潰れるようなことがあれば、乞食を共にすると・・・
1-3.ラジオ修理
鐵造は資材を投げ売ってでも、社員の給料やその家族たちのために充てがっておりました。
ある日、GHQの政策の一つであるラジオ修理事業を持ちかける人物が、鐵造の元に訪れました。
その人物は、元海軍大佐・藤本壮平。
鐵造は気づいておりませんが、藤本は軍令部にいた頃、会食をしていたのです。
藤本は、利益のためにではなく、人のため国家のために動く鐵造に感銘を受けていました。
また、海外での国岡商店の社員の献身的な働きぶりは海軍の中でも一目を置かれていたのです。
軍人として生きる術を失い、藤本は鐵造を頼ってきていたのです。
その後、藤本は新設されたラジオ部の部長として入社をし、生涯国岡商店を支えていく人物となるのでした。
1-4.石統との戦い
旧海軍のタンクの底に溜まっている油を汲み出し、再利用するのであれば、使っても良いと・・・。
GHQから嫌がらせのような仕打ちを受けることになる日本政府。
在日石油会社が断る中、国岡商店が手を挙げます。
社員の若手を中心に現場で作業をするのですが、呼吸困難や疲労、皮膚の炎症を起こすなど、壮絶な現場でした。
しかし、店員たちは生き生きと仕事をし、笑い声が飛び交う活気のある環境となっていきます。
そのような中、日本人同士の争いも勃発してきます。
石油統制会社の面々より、国岡商店を指定販売業者から外し、排除するという計画が持ち上がります。
かつて、嫌がらせのようにタンクの底の油を再利用しよといったアンドレー・チャンは、国岡商店の社員が懸命に作業する姿に心を打たれており、この横暴な計画を阻止します。
そして国内29店舗を得ることが出来、国岡商店は石油業界に再び返り咲きます。
1-5.日田重太郎との出会い
ここで時代は若かりし頃へ・・・
福岡県赤間村で生まれた鐵造は、19歳の時、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学します。
学校の近くにある橋本医院の医院長・橋本茂は、学生の話を聞くのが好きで、よく学生を招いておりました。
橋本茂の妻の兄であった日田重太郎も、その場によく居合わせてました。
鐵造は、場でも目立たない存在で、滅多に口出しや話に割り込まない物静かな性格であったようです。
そんな、鐵造を気に入った日田は、自分の子供達の家庭教師を依頼し、二人の親交が始まりました。
卒業後は、神戸の酒井商会に入り、丁稚として小麦を積んで町中を歩き回る生活を送ることになります。
出張帰りに、実家に立ち寄ると、商売に失敗して半年前に夜逃げ同然で離散していた事実が発覚。
鐵造は、バラバラになっている家族を呼び戻し、独立して自分の店を持ちたいと考えるようになっていきます。
卒業後も縁が続いていた日田からは「あんた、独立したいんやろう!」と胸中を言い当てられることに。
日田が京都の別荘を売った6,000円を手渡されます。
「お金は貸すと言うてへんで。あげると言うたんや。」
条件は3つ
「自分の初志を貫くこと」
「このことは誰にも言わんこと」
1-6.国岡商店設立
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出典 : cinematoday
明治44年、25歳になった鐵造は、九州の門司で国岡商店を旗揚げし、家族を呼び戻しました。
日邦石油より機械油を卸してもらい、石油販売に取り掛かります。
そのうち日田も門司に引越しをしてきます。
京都の別荘を売ったことで親戚一同から誹謗中傷や非難を受け、神戸に住みづらくなっていたのです。
一方で、伯父の紹介により、ユキというとても美しい女性と結婚する運びとなります。
身も固めたところで、商売もなんとか軌道に乗せてきましたが、赤字続きで、廃業を決意します。
日田を訪ねた鐵造は、
「3年であかんかったら5年やってみいや。5年あかんかったら10年やってみいや。わしにはまだ神戸の家がある。あれを売ったら7,000円の金はできる」と言われます。
それを聞いた鐵造は、涙を拭いながら死んだ気になってやってやろうと闘志が出てきたのでした。
1-7.海賊とよばれる
出典:tsite
鐵造は、門司の対岸にある下関で37隻の漁船を持っている山神組(現・日本水産)に交渉に行き、軽油を販売することになりました。
しかし、当時、元売りの日邦石油の門司在住特約店は、対岸の下関では売ることが出来ないという協定があったのです。
そこで、伝馬船を使って、海の上で、山神組の船に軽油を販売するという方法をとりました。
この販売方法には他の特約店から抗議が殺到し、日邦石油の下関支店・榎本支店長に呼び出しを喰らいます。
鐵造は、海の上で売っているので、下関では売っていないと主張します。
この強引な言い分に心意気を感じた榎本は、黙認することに。
こうして、国岡商店の伝馬船は、「海賊」と呼ばれる所以となったのです。
1-8.満州へ進出
順調に実績を伸ばし、他の地域でも販売を始めていた国岡商店ですが、鐵造は海外に目を向けていました。
国岡商店は、アメリカのスタンダード石油が牛耳っている満州に進出し、南満州鉄道で、スタンダード石油のシェアを奪います。
他にも海外の石油会社2社を含め、油が寒さに強いことを証明できたのでした。
関東大震災時は、建物等の被害には合いませんでしたが、銀行の倒産ということも合い重なり、資金繰りに困る事態に陥ります。
しかし、このピンチも鐵造という男気ある人柄によって、乗り越えることができました。
結婚して12年、妻ユキのことは愛しておりましたが、子供が出来ずにいました。
それを気にしていたユキは鐵造に離縁を申し込みます。
跡取りも必要ということで、固い決心に揺るぎのないユキの申し入れを受け入れた鐵造です。
その後、山内多津子と結婚をし、跡取り息子の誕生と4人の女子に恵まれました。
1-9.第二次世界大戦勃発
国岡商店は、海外に販路を見出し、上海を始め東南アジアにも進出を始めます。
アメリカが石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため米英に宣戦布告します。
国岡商店は、陸軍省の要請で店員(社員)を東南アジアに派遣し、油田の管理を任されることになりました。
一方で、4社の石油部門が統合され、国策会社・帝国石油が誕生し、日本の石油政策は国策化されることになります。
しかし、遠く南方から日本へ石油を輸送する船も少なくあれば、アメリカからの容赦ない攻撃にも合い、国岡商店も船を失うことになりました。
そうして、日本に供給される石油がなくなり、軍需工場も稼働しない状況に陥ります。
東京を始め、各都市ではB29の爆撃を受け、日本国内にも戦火に巻き込まれることになります。
そして、昭和20年8月6日長崎、8月9日広島に原子爆弾が落とされることになり、終戦を迎えます。
1-10.新たなる刺客PAG(石油顧問団)
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※1-4.からの続きになります。
終戦から2年が経ち、幾多の困難を乗り越え、国内に29店舗を構えることになった国岡商店。
しかし、石油元売り会社の資格要件として、石油タンクを所有しなければ、元売り会社に認められません。
石油タンクを所有するには資金調達が絶対です。
多くの銀行に融資を断られていましたが、最後の砦(?)東京銀行の大江常務と対面すべく一人向かう鐵造。
融資希望額の4000万を告げるとあっさり承諾する大江常務。
大江常務は、旧海軍のタンクの汲み取りに対する国岡商店の定員たちの働きぶりに感銘を受けていて、融資の話があれば、額を問わず承諾すると心に決めていたのです。
見事資金も得ることができ、石油タンクも入札の結果得て、元売り会社として石油販売に従事することが可能となりました。
1-11.石油タンカーを所有
一難去って、また一難。またもや外油(アメリカ・イギリス資本)の横ヤリが国岡商店を襲います。
輸入基地の共同使用禁止や日本の石油会社との統合を申し入れしてくる外油。
そうなると、石油を仕入れて売るだけの小売業者に転落してしまいます。
鐵造は、5年10年先を見据え、石油タンカーを自社所有することを重役たちに宣言します。
外国では石油会社がタンカーが持つのはある程度スタンダードではあるけれど、日本では前例がありません。
ましてや戦後復興の中、あらゆる産業でタンカーというのは切望されております。
なぜ石油会社が自社のタンカーを持つ?と石油・海運業界で反対意見が多い中・・・・
運輸大臣の「外国では石油会社がタンカーを持っているという。日本の石油会社がタンカーを持ってはいけないという法はない」
と言い放ち、国岡商店は外油と戦う一振りの刀を得られたのでした。
国岡商店の18774トンと日本最大にして世界でも有数のタンカーを建造する発表は、世間を驚かせました。
1-12.新田辰男との出会い
昭和26年12月22日。日章丸はついに完成しました。
その船の船長は、武知が見つけてきた新田辰男いう40年以上も船を操ってきた男です。
処女航海は、輸入目的でサンフランシスコへ。
敗戦国の日本が、世界最大級の石油タンカーを所持し、入港してきたことは、アメリカ国民にとって驚きでした。
バンク・オブ・アメリカ(当時世界最大の銀行)の極東担当部長は、祝福にやってきましたが、ボスが66歳でここまでやったことに驚嘆をし、いつでも東京の担当者に融資の相談をするようにとお土産を残してくれました。
このお土産は、後の苦難を救ってくれることになりました。
こうして、持ち帰った重油と軽油は、驚くべき性能と安い価格で、日本中を震撼させました。
1-13.イランの石油動向
ここで、国岡商店の最大の敵となった外油メジャーと呼ばれる「セブン・シスターズ」の紹介です。
2.ロイヤル・ダッチ・シェル
3.アングロペルシャ石油会社
4.スタンダードオイルニューヨーク
5.スタンダードオイルカリフォルニア
6.ガルフオイル
7.テキサコ
石油メジャーのうち、第二次世界大戦後から1970年代まで、石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社は セブン・シスターズ(Seven Sisters)と呼ばれておりました。
資源ナショナリズムにより石油輸出国機構(OPEC)が主導権を握るまで、世界の石油のほぼ全てを支配していたそうです。
そのような背景の中、当時(昭和20年代後半)イランの石油量は、世界一と言われておりました。
油田の歴史は浅く、開発が始まったのは1900年頃からでした。
元は、イギリスの探検家ウィリアム・ノックス・ダーシーによる好奇心からが、発端でした。
「神の火」と言われている伝説は、石油のことではないかと。
当時のイラン(ペルシア)国王に許可を経て、油田採掘に取り組みだし、財産を全て失いつつも諦めず、ついに大油田を掘り当てイギリス国家に莫大な利益を生み出したのです。
後にイギリスの国策会社アングロ・イラニアンの手中となり、石油の価値などわからないイラン国家は、事業純利益の16%しか手に入らず、長期にわたり経済的に困窮しておりました。
終戦後、中東にも民主化の波が押し寄せました。
イランの石油は、イラン国家のものであり、イギリスのものではないと半ばナショナリズム運動が起こります。
イギリスは自国民が掘り当てた大油田を渡してたまるものか!とイランに対し経済封鎖に乗り出します。
そこでイギリスは、軍事力行使をします。
イタリアの「ローズマリー号」が、イギリスの植民地アデンに強制入港させられ、イラン国内から輸出しようとした石油の差し押さえが行われました。
1-14.国岡商店とイランの接触
鐵造は、当初イランの石油を購入することに難色を示しておりました。
「盗品故買」をしてまで、自らの利益を得ることは反していると考えていたのです。
イギリス人が、正式に国王に申し入れ油田を開発しているのは、業界では有名な話なので、そのような石油を得るのは、盗む行為に値すると。
しかし、独自の調査とアメリカの確かな情報筋により、とうとうイランの石油購入を決意します。
「リスクのない商売は無い」と先述のローズマリー号事件のような目にあう可能性も承知で、行動に移ります。
イランとの交渉は一筋縄ではいきませんが、交渉設立となり「日章丸」をイランへ向かわせることになりました。
イギリスに差押えられたら、国岡商店は倒産に追い込まれるリスクも憂慮しつつ・・・!
1-15.アバダンへ!
昭和28年3月23日神戸港より、アバダン港(イラン)に向けて、日章丸は出航しました。
新田船長ともう一人以外は、本当に行き先をこの時点では知りません。
その家族や周囲にバレると計画は失敗に終わるので、極秘計画のもと任務は遂行されておりました。
スリランカを通過する頃、船員に本当の行き先を新田船長は告げました。
イランを救うためかつ自由競争の石油市場を作るため、日章丸はイランに向かうのだと。
船員の心が一つになり、昭和28年4月10日、イラン国民の熱烈な歓迎を受け、日章丸は無事アバダン港に到着しました。
1-16.いざ日本へ
昭和28年4月15日、日章丸はアバダンを後にいざ日本へ。
これからが本当の戦いです!イギリスに船を差し押さえられまいと、新田船長の巧みな船さばき本領発揮。
戦時中、武器も持たない民間船を操縦していた新田船長は、死亡率40%という軍関係の死亡率をはるかに上回る中、見事に操縦しておりました。
今回も百戦錬磨を戦ってきた勘が全てでした。
イギリスの行動の裏をかき、5月9日川崎港に帰還しました。
このことは、日章丸事件と言われるようになり、イギリス側から訴訟があり裁判が行われておりました。
「仮処分申請を却下する」という判決のもと、国岡商店は勝利を収めたのでした。
1-17.製油所建設
日本とイランの友好も結んだ日章丸事件でしたが、セブン・シスターズがまたもや逆襲に出ます。
イランの国営会社は、メジャーに乗っ取られてしまい乗っ取られてしまいます。
メジャーやメジャーの息のかかった欧米の会社と取引をすることになると、供給量や価格もメジャーの思いのままに陥ります。
メジャーに対抗するには、原産国から直接原油を仕入れ、それを精製して石油商品を販売しなければならないと考えた鐵造は、製油所の建設に取り掛かります。
鐵造は、かつて400万ドルの融資をしてくれたバンク・オブ・アメリカの本拠地に乗り込みます。
しかし、日章丸事件は、世界中にも広がっており、今回ばかりはメジャーのほとんどがアメリカの会社であるため、アメリカでも評判が悪いのではと部下に諭されます。
大英帝国を相手に会社の倒産までかけた命がけの行為に感銘を受けた副社長は、1000万ドルという巨額の融資を破格の条件で認めました。
ちなみに1000万ドルとは、当時の公式レートで換算すると36億円です!
敵(石油メジャーのほとんど)もアメリカなら、味方(融資をしてくれる銀行)もアメリカです。
こうして、徳山の地に環境や景観も配慮した製油所をわずか10ヶ月という奇跡的な期間で完成を迎えました。
1-18.社長引退・日田との別れ
製油所も手に入れ、業績は飛ぶ鳥を落とす勢いで伸び、セブンシスターズも手に及ばない大企業へと成長した国岡商店です。
セブンシスターズの1社とは、恋人のような関係を築いているのも功を奏しているのでしょう。
創業時からの恩人であった日田重太郎は、余命がわずか。
鐵造は、日田の望み通り、生まれ故郷の淡路で社葬として執り行い、安らかに眠るのでした。
日田の死後、社長を弟の正明、副社長は東雲とし、自らは会長と引退宣言します。
1-19.終章
古美術が好きで収集していた鐵造でしたが、戦後社員の給料を払うため多くを手放していました。
ある日、「双鶴画賛」というかつて手放した掛け軸に出会います。
この一点だけは、出会うことなく今まで買い戻すことができずにいたのです。
鐵造は、今になりこの絵が自分の元に戻ってきたのかわかったような気がしました。
昭和56年3月7日、鐵造は、95年の英雄的な生涯を終えました。
臨終の床の間には「双鶴画賛」が掛かっていました。
2.映画「海賊とよばれた男」原作本との違いは?
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2-1.「永遠の0」の宮部久蔵は出演するのか?
久しぶりに、永遠の0を見た・・・
改めて、宮部さんの心に触れながら見たら苦しくなったよ。
特に台詞の無い時の表情から受ける感情が、たまらない。 pic.twitter.com/GbfwNx5hm4— Kei☆ (@veryhappykei) October 19, 2016
原作本には、鐵造が上海の海軍航空基地に訪れるシーンがあります。
以下抜粋です
その時、零式艦上戦闘機から一人の若い航空兵が降りてきてこちらに向かってくるのが見えた。
航空兵は、司令部に向かう途中、鐵造の前方を通った。
「ご苦労様です」
鐵造は青年の無駄のない美しい動きに感服した。
二十歳をわずかに過ぎたくらいの背の高い馳せた男だったが、全身から精悍な空気が漲っていた。
胸の名札に「宮部」と書いてあるのが見えた。
前大ヒット映画作へのオマージュなのか(?)、百田直樹さんの粋な計らいなのか・・・
あの宮部久蔵としかどう考えても思えないですよね!
鐵造と宮部の対面シーンは出てくるのか?
こちらは「ない」でしょうね^^;
予想通り、宮部久蔵は出演しなかったです!
しかし、映画冒頭シーンは、敵機の空爆から始まったので、一瞬ですが、あれ?まさか宮部出現?なんて思ってしまいました^^;少しだけ「永遠の0」へのオマージュ的意味合いを個人的には感じました。
2-2.小川初美とは?原作では登場なし
出典 : crankin
現時点でわかることは、鐵造が年老いてから出会う人物とのことです。
原作本では、小川達雄という人物が登場します。
小川達雄とは、前妻ユキの大甥に当たる人物であり、ユキが亡くなり遺品を整理していたら、鐵造が夫出会ったことがわかり、手紙を送ってきます。
同じ「小川」ということもあり、大甥ではなく大姪として登場するのか?というのが気になります!
2016/12/12追記
小川初美の大叔母が別れた元妻のユキでした。予想通り、大姪でしたね!
原作との違いは、
・女性であったこと
・手紙を送るのではなく、入院先(?)の病院まで鐵造を訪ねてきたこと
小川初美を演じるのは、黒木華です。
若手の実力派女優として頭角を現している彼女なので、終盤の重要なシーンにもってこいの逸材ですね^^
2-3.鐵造の大恩人は、木田章太郎として登場
鐵造が、神戸高商時代より交流のある日田重太郎ですが、映画では木田章太郎として登場しました。
原作にも出てきた名言!
は、しっかりと出てきてグッときましたね〜。
また映画では、終戦後には亡くなっておりますが、原作では、昭和37年初めまで生存しています。
・東京では、住む場所やお金の援助をしていた
・木田の葬儀は、木田の故郷淡路島で行い社葬として取り仕切った
・徳山製油所の住所を「日田町」と日田の姓からとった
などなど、木田(日田)の存在というものが、原作ではもっと描かれています。
2-4.アバダン(イラン)からの日本への航海時、イギリス軍と遭遇
原作では、航海中はイギリス軍に遭遇することなく、航路を変更したり頭脳戦を駆使して、川崎港へと無事帰国します。
メジャーとの戦いを劇的に描きたかったのでしょうか(vs.アングロ・イラ二アン←イギリスの石油メジャー)
船長は、盛田(原作:新田)
と微妙に名称が違ったります。
2-5.ユキは鐵造とは対面せず離縁している
出典: toyokezai
ユキと鐵造は、お互いが支え合っている理想形の夫婦なのですが、子供ができずにいました。
ユキは鐵造が子供を欲しがっていることがわかっているし、国岡商店の将来のためを思い、身を引こうと決意します。
台湾から帰ると、ユキが居間にやってきて畳に両手を合わせた合手礼をし、離縁を申し出る
満州から帰ると、兄が部屋に座っており、ユキは出て行ったと伝え、預かった手紙を渡す
離縁に至る経緯は、一緒なのですが、ユキの別れ方が違います。
2-6.弟・正明は登場せず
原作本では、物語後半部分かなり重要人物となる鐵造の弟・正明ですが、映画では登場しません。
満鉄に勤務していた正明は、満州に攻め込んできたソ連軍に捕まり、収容所に入っておりました。
昭和22年、終戦後2年が経ち、ようやく石油販売業務を再開する運びとなった矢先、正明が日本へ戻ってきたのでありました。
それからは、経営陣として国岡商店に参画し、イランとの交渉やあらゆる重要な局面で、鐵造の右腕として働きます。
3.まとめ
出典 : twitter
2012年本屋大賞受賞で、現時点で400万部という大ベストセラーである本作の映画化は、3年前の「永遠の0」より期待大と言われているようです。
20代から90代までを一人で演じる岡田准一にも大注目ですね!
豪華キャストも楽しみです。
https://musicalstarza.com/kaizoku-review/
ロケ地・撮影場所の気になる方は、以下をご覧ください♪
→ 【海賊とよばれた男】ロケ地(撮影場所)や舞台(聖地)は?京都舞鶴や神戸が多いか?